﨑田恭平は昭和54年(1979年)、日南市に生まれる。両親が共働きだったため、おばあちゃん子だったという。創設されたばかりの宮崎第一高校文理科に進学。宮崎市で3年間寮生活を送る。一浪のあと、九州大学工学部に進む。大学時代はボランティアサークルに所属し、福岡県の児童養護施設で活動を行っていた。このとき、親に虐待された子どもたちと交流したことがきっかけとなり、政治を志したという。
大学卒業後、宮崎県庁に入庁し、2012年8月まで勤めた。2007年には宮崎県内の若手行政マンによる勉強会「Mfnet」の発起人の一人となり、市町村の垣根を越えて交流し、切瑳琢磨した。また厚生労働省に派遣されたときは宮崎県出身の若手経営者やNPO職員、学生らと交流するなかで、宮崎に戻りたいと思っている人が多いことを実感したという。超党派政治グループ「龍馬プロジェクト」にも参加し、研鑽を積んできた。
2013年、「若者が地元に戻れない状況では、明るい展望が開けない。閉塞感を打ち破らなければならない」と市長選に出馬を表明した。組織に頼らない草の根の選挙運動を展開、毎朝夕は駅前などに立ち、市内もくまなく巡って、ミニ集会を50回以上開いた。33歳という自身の若さを行動力と結び付け、「ビジネスの世界では若手経営者は珍しくない」とアピール。雇用拡大のための起業家誘致や市場調査を用いた産品の販路拡大などをわかりやすく披露した。
選挙には再選を目指す現職、元県議も出馬し、三つどもえとなったが、「現状維持は停滞の始まりだ。立ち上がって飛躍を目指す」と主張した崎田が他の2候補に大きく水をあけて初当選。全国で2番目、九州では一番若い市長の誕生となった。市長に就任すると、『できない理由ではなくできる方法を考える市役所』をモットーに、既成概念にとらわれない市政運営を行いたい」と語った。
「小学校の頃の夢はラーメン屋になることだった」というほどのラーメン好きは今も変わらない。信条は「愚直」。
プロフィール
﨑田恭平−さきたきょうへい
昭和54年 5月22日生まれ
日南市(飫肥)在住
父は元JA職員、母はおび中央病院の元職員。
両親が共働きであったため、おばあちゃん子。
風呂を薪で沸かすなど、古き良き田舎で育つ。
男3人兄弟の長男。
弟は宮崎市消防局、農林水産省(東京)に勤務。
学歴
○吉野方小学校
バスケットボールクラブに所属。
小規模校ならではの地域の温かい見守りの中で育つ。
○飫肥中学校
ソフトテニス部に所属。
テニス三昧の3年間。仲間に恵まれる。
○大学受験に失敗
人生初めての挫折。河合塾福岡校へ(福岡市天神)。
東大や医学部進学を目指す予備校生達との浪人生活で大きな刺激を受ける。
成績が非常に良い同級生と共に勉強する中で、自分の能力がたいしたことがないことを痛感。自分を鍛え上げないと世の中では通用しないと心底思う。
○九州大学工学部エネルギー科学科へ進学。(環境流体システム学)
大学時代、ボランティアサークルに所属。
福岡県大刀洗町にある児童養護施設「清心慈愛園」にて活動をし、子供たちや職員の先生方から多くのことを学ばせてもらう。
この経験から、どのような境遇に生まれても、未来に夢や希望を持って、自らの足で歩いていける社会づくりをしたいと考える。
そして、「公」に関わる仕事をすることを決意。
○九州大学 卒業
これまでの活動
県庁職員として
平成16年
【地域振興課】
政策立案、南那珂等の地域づくりの支援を担当
平成18年
【西都土木事務所】
道路・河川、都市計画の許認可を担当
平成20年11月
【海外派遣研修】スウェーデン、デンマーク
北欧の地方分権や高負担福祉国家を学ぶ
平成21年
【厚生労働省へ派遣】
夏の政権交代を経験、霞ヶ関の仕組みや考え方を知り、
地方からの改革が重要だと感じる
平成22年
【医療薬務課】救急医療・災害医療担当
災害派遣医療チームDMATの体制構築や
ドクターヘリ導入に携わる
平成22年8月───退職
平成23年4月───日南市第2代目 市長へ
一個人として
若手行政マンの自主勉強会
県庁や市町村役場の行政マンが自己研鑽をする勉強会
「Mfnet」を設立。
東京ー宮崎における人材交流会
東京に住む宮崎県出身者を集め、宮崎で活躍する若手起業家の話を聞く
「みやざきわけもんフォーラム」を設立。
政策で知事賞受賞
県職員が政策提案する「かえるのたまご」−審査委員長・東国原英夫知事(当時)
において知事賞を受賞。